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磁器生産の開始

有田焼 肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まりました。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本へと連れ帰り肥前国鍋島藩主の鍋島直茂が、連れ帰った一人の李参平は、1616年に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われていました。 李参平は日本名を金ヶ江三兵衛と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物です。実際日本で最初に磁器を焼いたかどうかまではわかりませんが、肥前磁器の発展に大いに貢献したことは確かであり、有田町では李参平を尊重し祭神とする陶山神社もあります。 学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から、西部の天神森、小溝窯で磁器製造が始まっていたことが明かになっています。この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器を作っていました。染付は、中国の青花と同義で、白地に藍色一色で図柄を表わした磁器です。当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされています。一方で17世紀の朝鮮では白磁しか製造されておらず色絵の技法がなかったため、絵具の知識は中国人に学んだと考えられています。 1637年に鍋島藩が、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在の皿山を形作りました。この頃までの有田焼を骨董界では初期伊万里と呼ばれています。陶石を精製する技術が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く三分の一高台が多いことが特徴です。