






色絵磁器の登場・発展
1640年代に中国人によって有田焼の技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行なう色絵磁器が生産されるようになりました。伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品は、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占める事が近年の調査でわかっています。ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていました。
17世紀後半に生産が始まった柿右衛門様式の磁器は、濁手と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものです。この磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされていますが、窯跡の発掘調査の結果によれば、柿右衛門窯だけでなく、有田のあちこちの窯で焼かれたことがわかっていて、様式の差は生産地の違いではなく、製造時期の違いであることがわかっています。17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造されました。
17世紀末頃からは、金彩をまじえた豪華絢爛な「金襴手」も製造されるようになりました。
また、17世紀末頃から波佐見を中心に、焼きの歩掛かりをよくするための厚手の素地にコストを安く上げるために簡略化された同じ紋様を描き込んだ碗類を大量に生産しました。 一方、鍋島焼は、日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみを焼いていた藩窯です。鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるために、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていませんが、時代を下るにつれて質はやや下がります。
当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたりました。生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていましたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離された職人は、一生外部へ出ることはなく外部から人が入ることも極めて希で、閉鎖的な社会が形成されていました。しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し技術が漏洩します。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていきます。江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていきました。しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで色褪せていません。また、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と呼びます。